映画残侠子守唄

映画ブログになる予定です。

なかひら

 こないだ中平卓馬展に行ってふと、そういえば実は読んでなかったなと思い、いま図書館で『なぜ、植物図鑑か』をパラパラめくっています。

「アジテイションとしての映画は可能か」感想、気になったとこ。

・我々は(例えば「フーテンの寅さん」とか)一見アジテイションに見えないアジテイションに晒されてブルジョア規範を刷り込まれている、それに対抗するアジテイションというのは可能か、まあよくある大衆文化批判

・ふつうその流れだと受け手にちゃんと考えさせるべきという方向に行きそうなものだけど(アドルノしかりグリーンバーグしかり)、陳腐な慣用句のような、単純な言葉の繰り返しの力をほめているのが面白い。いまいちピンとこない。それはファシズムの宣伝手法じゃなかった?あくまで写真家であって理論家ではないという感じがするけど、そこがこの本の面白いところでもある気がしている。

・たぶんその理由の一つとして(?)、多少反体制的な姿勢を見せたところで<文化>的に消費されるにすぎないという話が出てきて、小川紳介、土本典昭をdisる。確かにと思う部分もあり、まあ実際「三里塚」シリーズを観た人のどれぐらいが羽田に行ったのかという話になるとよくわからないが、それは足立正生の映画を観て赤軍に入った人より多そうな気もするからなんとも言えない。そういう問題なのか。

・”吉田喜重実相寺昭雄らの「芸術」「思想」めかした難解な言葉に一片の真実もありうるはずはない。”

・この人、吉田喜重のことめっちゃ嫌いだな。別の文章でも悪口書いてた。

・それを言ったらゴダールこそ思想めかした難解なこと言いまくってるのでは?

・反体制を自称する映画にもプロデューサー、監督、スタッフのような制作のヒエラルキーがあるのでよくない。制作体制も重要だという話。この人、めっちゃゴダールのこと好きだな。

・”マルクス主義は内容は形式を規制すると主張する。それはそれで正しいことは認める。だが形式が内容を逆規制することもしばしばあるのだ。”

・↑後者のほうが一般的なマルクス主義という感じがする。ここで中平卓馬が言っている「マルクス主義」っておそらく日本のプロレタリア文学の話だと思われ、(「内容」と「形式」とか、いわゆる形式主義論争とかいうやつの話だろうという気がする)、日本の文学史に明るくなさすぎて普通に前者の「マルクス主義」がなんでそんなことになってたのかさっぱりわからない。そしてわりとどうでもいい。

 

おわり